うるしよもやま話74
26・10・24 全国の漆器 21 
全国の漆器次は関西地方に移り京都府です。
勿論京都府は平安遷都以来文化の中心地として君臨しており、塗物についても京塗という他産地を圧倒する塗と蒔絵の優雅を誇っています。
特にこれといった特徴を持った塗物ではありませんが、蒔絵については長年の技術、優美さを誇り日本一の座を揺るぎないものとしています。
蒔絵、加飾については本阿弥光悦、尾形光琳など先達の技を更に練り上げ他の追随を許さないものになっており、
特に調度品お茶道具など、伝統的なものお道具ににその優美さは象徴的に現れております。   

うるしよもやま話73
26・10・17 全国の漆器 20 
全国の漆器次は愛知県名古屋市です。
漆器というのは昔は生活に欠かせない道具でした。御三家の一つ尾張藩の城下町でも当然漆器を扱う職人がいたはずですが、知名度の高い塗物は存在していません。
名古屋市には江戸から嫁がれた三代将軍家光の千代姫の花嫁道具で初音蒔絵調度品が国宝として存在、専用の美術館があります。
たまたま塗技術に独自性の高いものが生まれなかったものと思われます。
ただ1920年代黒田忠譲なる人物が硬質漆器(紙を溶解させその後成型したものに漆を塗る技術)というものを発案し名古屋漆器と称しています。   

うるしよもやま話72
26・10・10 全国の漆器 19 
福井県の漆器次は若狭塗です。若狭は塗箸の産地として全国的に有名ですが、お箸のシエアは全国の80%を占めております。
箸の歴史は慶長年間にスタートしたと言われています。小浜藩の箸職人が若狭湾の海底の美しさを模して塗り箸に意匠したものが起源だそうです。
その後小浜藩の産業奨励により足軽などの内職として全国に若狭塗のお箸として広まっていきました。
最近ではNHK朝の連続ドラマ「ちりとてちん」で主人公の実家がお箸の職人だということでその知名度をさらに押し上げていました。
お箸の塗技術は他産地の追随を許さないようです。また産地アピールも旺盛でバラク・オバマ大統領に小浜市としてお箸のプレゼントすなど話題性を高めてもいるようです。   

うるしよもやま話71
26・10・3 全国の漆器 18 
北陸地方最後は福井県です。最初に越前漆器です。福井県鯖江市河和田町という小さな山あいの町があります。一説ではあの佐々木小次郎の出生地と言われているところです。
この地には漆精製業者さんが点在しております。その昔各地へ漆掻きを派遣していたような村だったようです。
この町の漆販売業者を含めこの河和田には木地屋さん漆器屋さんが一体となり産地を形成しています。それが全国の飲食店の漆器をフォローしている越前漆器の産地です。
現在は木製品、樹脂製のものまで飲食店向き製品を多く提供しています。
一方近年、漆愛好家から転じて業務用ばかりでなく作家活動を展開する若者も誕生しているようです。
福井県次回は箸で有名な若狭塗に触れていきます。   

うるしよもやま話70
26・9・26 全国の漆器 17 
前回の続き石川県の金沢漆器について触れていきます。
金沢漆器の始まりは前田利常(前田利家の四男・2代目藩主)の時代、美術工芸の振興を意図したことからスタートしています。
よって当初より大名家のお道具を作ることを目的としており、京都より五十嵐道甫・江戸より清水九兵衛などの高名な蒔絵師・技術者などを金沢に招きスタートしています。
特に五十嵐道甫は五十嵐流蒔絵の実質的な祖とも言われております。
そして大名道具を作る金沢漆器は徐々に城下へも浸透してゆき、明治維新の大名の消滅に伴い各地へ蒔絵技術が広まっていきました。特に輪島塗への影響は大きなものがあったようです。   

うるしよもやま話69
26・9・20 全国の漆器 16 
中部地方次は管理人の住む石川県です。石川県といえば輪島塗と思われますがその他に山中塗と金沢漆器があります。輪島塗といえばこのコーナーで縷々説明させていただいていますので、割愛させていただきます。
他の二つ山中塗、金沢漆器について触れさせていただきます。
山中塗の歴史も古く16世紀末期に湯治場への客のお土産などに商業として成立したのではと推測されています。
その後普及品を大量に作る産地として1950年代には会津を抜き全国一の漆器産地となりました。
最近では、人間国宝川北良造氏などに代表される、木地化工を前面に出した、分野への産業がシエアを確保しつつあります。金沢漆器については次回とします。   

うるしよもやま話68
26・9・14 全国の漆器 15 
中部地方次は富山県です。富山県といえば高岡漆器です。富山県西部高岡市を中心として産地を構成しています。地名度はそれほどではありませんが西暦1600年台初頭慶長年間高岡城築城に伴い漆塗技法が、伝承され始めたようです。
技法的には木彫堆朱、及び青貝など用いた螺鈿細工が見られます。主に地元を中心としたギフト用品として生産が進められています。
富山県には取扱は微々たる感じですが魚津漆器というマイナーな塗物があります。
明治年代中ごろ輪島の職人が移住し、伝えて現代につながっているとのことです。   

うるしよもやま話67
26・9・8 全国の漆器 14 
中部地方次は静岡県です。静岡県といえば駿河漆器です。主に静岡市を中心として産地を構成しています。地名度はそれほどではありませんが今川家の時代からその伝統は続いており、明治初期には輸出用としてかなり隆盛を極めていたようです。
近年では全国一の雛道具の産地として本漆云々はあるようですが漆器ならびに蒔絵の技法を駆使して、日本有数の雛道具産地として存在感を高めています。   

うるしよもやま話66
26・9・2 全国の漆器 13 
全国の漆器次は中部地方、岐阜県です。岐阜県といえば飛騨春慶です。主に高山市を中心として産地を構成しています。その地名度は全国区です。
簡単に製法を述べてみます。木地は檜、サワラなど柔らかいものが多く使われています。
お盆、轆轤細工などが多いようですが、弁当など曲げ物も多くみられます。木地に豆乳、カゼインなどタンパク質系で色づけを行い、その後良質な透き漆を塗り重ねて完成させます。
その透明感、汎用性から日常使いとしての人気は高いようです。   

うるしよもやま話65
26・8・26 全国の漆器 12 
続いては長野県です。
長野県はご存知の通り山国で漆、木地はふんだんに産しますが、塗物が中心産業にはいたりませんでした。中山道の旅人への口伝えで関西方面へ販路を求めていたようです。
木曽漆器と言われる名称で松本市から塩尻市あたりで家具中心の塗物が存在します。
通常木曽漆器と言われるものの中に木曽福島、奈良井宿などそれぞれの地に独特というほどではありませんが昔の宿場ならではの塗物を産していました。
どちらかというと轆轤細工、木工製品にその名を知らしめているようです。   

うるしよもやま話64
26・8・22 全国の漆器 11 
甲信越に入り新潟県です。
新潟県の漆器は秋田県の能代春慶塗の流れをくんで発達してきております。藩政期よりの発展を続け明治期に竹塗という技法が開発されました。錆漆で竹の節を形成し竹に似せた雰囲気を出す技法で現在では新潟漆器を代表する塗物になっています。
新潟県で著名な技法は村上堆朱です。本場中国の堆朱の雰囲気を醸し出しています。
技法としては朴、栃、桂などの木地に彫刻を施し漆で塗り固めとくさで磨き朱漆で上塗をして完成させたものです。
歴史は古く約260年ほど前に技法が確立されたようです。   

うるしよもやま話63
26・8・17 全国の漆器 10 
関東地方次は神奈川県です。
神奈川県には鎌倉彫というメジャーな塗物があります。その名の通り鎌倉市を主産地にしています。製法はヒノキ、カツラ、ホウの木などの加工しやすい木地に木彫りを施します。
その表面を生漆で固めた後に黒漆、色漆で彫り物を際立たせる技法です。大きな器物でその彫り物が映えるように思われます。首都圏にあることから、都心部の百貨店などでも取り扱われてをり、人気は高いものがあります。
神奈川県ではもう一つ小田原漆器というものがあります。木地は主としてケヤキが用いられています。轆轤細工で挽き物(お椀、菓子鉢など)を中心にすり漆(透明な漆)を何回か塗重ねて木目を生かしているのが特徴です。主に輸出用などに作られていたようです。   

うるしよもやま話62
26・8・13 全国の漆器 9 
関東地方に入り次は東京です。
東京には何々塗などという特徴のある塗物はありませんが、漆器の大消費地であり、日常的に漆器が使われています。
蕎麦道具、すし道具、ふすま、楽器、江戸指物などと組み合わせ、合成樹脂などの上薬出現以前の主たるコーテイング剤として大きな役割を果たしていました。その生産量は各地の特徴ある塗物をはるかに凌駕していました。
         

うるしよもやま話61
26・8・4 全国の漆器 8 
東北地方から次関東地方に入ります。最初は栃木県です。
栃木県といへば日光ですが、全国的に有名な漆器はなく、日光漆器の日光盆、紅葉塗などというマイナーな漆器が生産されています。
その特徴について簡単に述べたいと思います。紅葉塗ですが、木地に下地して中塗を施し、その上から楓の葉っぱに色漆を付け転写し乾燥後透明な漆を塗り紅葉の雰囲気を楽しむ加飾方法です。
日光盆は日光彫とも言われ、栃の木の木地にすり漆を塗りその後、唐草文様などを彫り込み更にその彫り込みに朱漆を刷り込み 文様を際立たせる製法です。          

うるしよもやま話60
26・7・30 全国の漆器 7 
東北の漆器次は 福島県です。
福島と言へば会津塗です。その歴史は古く16世紀末当時の藩主蒲生氏郷が近江より木地師を招き基礎を築きました。1600年代半ば過ぎ江戸へ商品として持ち出されるようになっていたようです。
全国的に評価が高かったのは木地に特徴があったようです。近江から木地氏を招いたように、丸物、東北地方に多くみられる曲げ物、更には重箱などの箱物と漆文化全盛の江戸時代に生活必需品全般を提供できたことが明治期以降も知名度を維持できた要因です。
尚且つ加飾も会津絵、消蒔絵など当時庶民に許されていた最高のものを備えたところが人気を博したようです。          

うるしよもやま話59
26・7・26 全国の漆器 6 
東北の漆器 山形県です。
全国的に有名な漆器はありませんが、地元の人々に愛用されている、独自の漆器は存在しています。
一つは山形市にある権之助塗という漆器です。約300年程度前に藩主の命で開発されたものです。木地に手彫りを施し丹念に茶黄色の漆を重ねる手法です。手彫りを施したところには色漆などで彩色をして蒔絵風に仕上げたものです。
もう一つは鶴岡市にある、竹塗りという塗物です。木地の表面に錆漆で竹の節のようなものを形取りいかにも竹細工のような趣を醸しだしています。          

うるしよもやま話58
26・7・22 全国の漆器 5 
東北の漆器 秋田県です。有名な塗物として川連漆器が知られています。市町村合併の繰り返しにより昔の稲川町から現在の湯沢市を中心とした地域の漆器です。
歴史は古く約800年前の支配者小野寺氏の武具に漆を塗ることを推奨したことが起源とされています。
爾来、塗物に対する土地の人々の関心は高く、蒔絵、沈金技術の習得、現在のウレタン樹脂塗装技術など川連漆器の伝統は脈々と続いています。
更にマイナーなところでは能代春慶塗(黄春慶=飛騨春慶より黄色い)という塗物があります。秋田名産の杉、桧葉などを素地に透明度の高い漆を塗り重ねる、飛騨春慶塗の技法を踏襲しています。歴史は古く1660年代に始まっていますが、技法は石岡家の一子相伝のため大きく市場を広げることはなかったようです。
秋田では以上の漆器とは別に、大舘の曲げわっぱが有名です。昔は漆で木地固めをしていましたが、昨今はウレタン樹脂などで木地固めをしているものが多いようです。          

うるしよもやま話57
26・7・16 閑話休題 
7月15日石川県の地元北國新聞に漆塗刷毛のニュースが掲載されていました。内容は腰の強い人毛製漆塗用刷毛のメーカーが全国でわずか2先(東京都の田中刷毛・埼玉県の泉刷毛)のみと輪島塗の先行きに不安を覚えるという内容です。
しかしこのニュースの要点は刷毛屋さんが減少していることではなく、漆器の需要が減少していることにある気がしています。
管理人の持論というほど大げさなものではありませんが、人々がどうしても必要な汁椀・お箸のようなアイテムを発掘することが漆器産業の再興にかかせないということを、業界全体で考えなければならなという警鐘の記事でなかったのでしょうか。          

うるしよもやま話56
26・7・12 全国の漆器 4 
東北地方次は宮城県です。
東北地方には良い漆が採れることから、漆器も土地土地で特色を持ったものが生まれています。
その一つが鳴子漆器です。約350年ほど前からスタートした素朴な漆器でしたが、江戸時代からの貨幣経済の移行に伴い独自の発達をしていきました。
その特徴は豊富な木材を活かし挽き物を利用し木目を活かしたものと、水に油を乗せその上に更に色漆を乗せ器物に移した墨流し技法を応用した文様の漆器です。
全国的な知名度はそれほど高くありませんが、鳴子温泉付近でそれなりの市場を形成しています。
もう一つは仙台市付近で、昭和初期殖産興業の目的で作られた玉虫塗という漆器です。その特徴は漆に銀粉を混ぜた中塗りをして、その上から透明な漆を塗る技法です。それにより玉虫の羽のようなキラキラ感と透明感が生まれています。
戦前の困窮した時代を迎えたため大産地を形成することはできませんでした。          

うるしよもやま話55
26・7・8 全国の漆器 3 
東北地方次は岩手県です。
岩手県には著名な塗が二種類存在します。
一つは秀衡塗りです。平安末期、藤原秀衡が京都より職人を招き作り始めたのが起源とされ、潤沢に使われている漆と金箔が特徴です。 朱で雲形を描き中に十字模様の金箔を施す、独特の模様でその名を知られています。
もう一つは浄法寺塗です。岩手県二戸市を中心とした日本一の漆液産地で起った塗です。
がっしりとした丈夫な器が主に作られています。無地の品が多いようです。専門的なことで言えば、下地は錆下地(漆と砥の粉を混ぜたもの)が主流です。          

うるしよもやま話54
26・7・4 全国の漆器 2 
前回触れませんでしたが、津軽塗にはいくつか塗りかたがあり、前回述べました塗りかたは唐塗りと言われていますが、現在では津軽塗を代表する技法になっています。
津軽塗の更なる塗りかたとして七子塗という技法があります。
技法は漆を塗ったうえに荏の実を蒔き詰めて乾固のあとその実を払い落し上塗りして全体的に研ぎだすと荏の実を敷き詰めたような細かい文様が残りそれを特徴としています。しかし全国的な知名度はそれほどでもないようです。
さらに紋紗塗りと言う技法もあります。
技法は漆を塗布した上に焼いたもみ殻を蒔き乾固させます。その後もみ殻を払い落します。工程的には七子塗とほぼ一緒です。さらに研ぎ出しますがやや黒っぽい地味な地模様が特徴です。
伝統的な津軽塗とは少し離れていますが、1950年代ブナの木くずを固めた後轆轤で整形し器などにして漆を塗布して仕上げます。津軽塗の伝統の中で誕生した新しい技法と言えます。          

うるしよもやま話53
26・6・30 全国の漆器 1 
従前全国各地北は青森から南は琉球沖縄まで各地に特徴のある漆器があることを述べさせていただきました。
今日からはその各地の漆器について簡単な特徴を述べていってみたいと思います。
まず北は青森県からスタートしたいと思います。
青森県は漆器産地も多く4か所の塗技法があります。
その内津軽塗いわゆる唐塗についてご説明したいと思います。 津軽塗は下地は柿渋下地を中心としています。そして絞漆(漆に卵白などのたんぱく質を加え粘度を高めた漆)を塗りその上に顔料を加えた漆を蠅叩き状のもので塗り重ね乾いた後で研ぎ出します。
そうしますと絞漆で滑らかではない漆の上に塗り重ねられた色漆の表面化するところ、そうでないところが津軽塗の独特の色模様を表してきます。
津軽塗は求めやすい価格その色合いで有数のブランド品として流通しています。          

うるしよもやま話52
26・6・23 漆・蒔絵の歴史 18
自然素材である、漆器が日常生活から大変遠いものになってしまっています。かって器は木製品、漆器か陶器が中心でした。
しかしその後ガラス製品、樹脂製品、紙製品など現在は多様化してきています。
今からその流れを逆転させることは不可能だと思います。
生活に潤い持たせる素材というこを前面に出し活かしていければと思います。
現代生活で漆器が多く使われているのは、汁椀、お箸、仏壇など数えるほどのアイテム数です。しかし代替物はありますが、主流の位置を奪われていません。このようなアイテムを探していくことが漆器復活の道だと思います。
漆器蒔絵の歴史の項は終了いたします。          

うるしよもやま話51
26・6・19 漆・蒔絵の歴史 17
6月19日地元の北國新聞に輪島塗の衰退の原因を探るべく、金沢大学が生産者、材料、ユーザーなど各分野の調査するという記事が載っています。
今からかっての勢いを取り戻すことは、極めて困難なことだろうとは思いますが、自然素材漆を現代生活に復帰させる試みは大変良いことと思います。
前回の続きで申しますと、先祖伝来の会席膳は多分老朽化して破棄せざるを得ないようなものも必ずあると思います。
そうすればその中で幾分かは使えるものがまず有ると思います。蓋付椀が残れば珍味入れに使う、御膳が残れば花台に使うという具合に工夫してみればいかがでしょうか。
先祖の遺したもので処分するのは気が引けるという方は是非試してみてください。漆器は使わなければ使わないほど劣化していきます。使えるものは使い使えないものは廃棄していくというのがぞ先祖様に報いることではないでしょうか。          

うるしよもやま話50
26・6・14 漆・蒔絵の歴史 16
明治期以降の漆文化、蒔絵文化については過去に相応に触れさせていただきました。現在漆器というものが家庭の中でほぼ存在意義を失っています。
このままでは東アジア中心の漆文化がこのまま衰退の道を辿っていくことになります。それについて少し考え方を述べてこのシリーズの最終章にしていきたいと思います。
先般北陸地方在住のある方とお話していたときのことです。家を新築される際に、旧家というわけではありませんが、昔からの塗物の御膳会席セットを古道具屋さんに引き取って貰おうと交渉したところ、全く値段が出ずかえって処分料を請求されたそうです。
この場合緊急でやむを得ない感じですが、管理人の意見では気持ちがあればそういったお道具を日常使いされてみませんかということです。
スローライフが云々されている昨今です、ご先祖が苦労して手にいれたお道具を壊れるまで使ってみてはいかがでしょうか。 この章次回へ続く          

うるしよもやま話49
26・6・10 漆・蒔絵の歴史 15
前回江戸時代各地に独創的な塗物が作られるようになったことを述べさせていただきました。
今回は蒔絵について述べさせていただきます。前々回安土桃山時代から琳派による工芸の発達を述べましたが、この現象の一環でもありますが、大名家お抱えの蒔絵師はその技術を宗家として伝承していくようになりました。
代表的な宗家として◎幸阿弥家(足利将軍家・徳川将軍家・京都御所など)◎五十嵐家(加賀前田家)などが著名なところです。
特に幸阿弥家の代表作として将軍家光の娘 千代姫が尾張徳川家へお輿入れの際のお嫁入り道具「初音調度」は3,000点を越したと言われております。今でも名古屋の徳川美術館にその一部が展示されています。
そして大名家お抱えの蒔絵師、塗師が徳川幕府崩壊により職を求め各地の塗物を大名道具の上手物から下手物へと切り替えていったわけです。          

うるしよもやま話48
26・6・6 漆・蒔絵の歴史 14
江戸時代の特徴二つ目は各地大名家独自の塗技術の発達です。
各大名家の殖産興業の一環として各地で塗技術が発達し藩外からの貨幣獲得手段となっています。
もちろん漆塗り以外にも染色、工芸その他貨幣経済への転換のための産業が起っています。
漆塗りでは北は津軽塗から南は琉球塗まで全国くまなく産地が構成されています。
いくつか挙げますと北から 津軽塗 浄法寺塗 川連漆器 会津塗 江戸漆器 村上堆朱 山中塗 輪島塗 越前漆器 木曽漆器 海南漆器 大内塗 讃岐塗 琉球漆器などが有名なところです。
この他に全国各地にいくつかの特徴を持った塗りが存在しています。そしてこれらの中で唯一全国ブランドとなったのが輪島塗でした。(うるしももやま話6で経緯記述)
         

うるしよもやま話47
26・6・2 漆・蒔絵の歴史 13
近世とは安土桃山時代・江戸時代からを指すようですが、江戸期に入り世の中が安定し始めると漆文化は高度化と中流階級への普及を見せ始めました。
いくつかの項目に大別されますので、順番に見ていきたいと思います。
1番は工芸における琳派の登場です。桃山時代から活躍していた本阿弥光悦が京都に工芸村を造ったのが発端となり約100年後尾形光琳が完成させました。
古典に題を求め独自の解釈を加え、大胆な意匠構成を考案しています。更には材料として、金、鉛、貝、銀など自由な発想で意匠しています。
代表的な工芸品に伊勢物語八橋蒔絵硯箱(尾形光琳)船橋蒔絵硯箱(本阿弥光悦)等が挙げられています。
         

うるしよもやま話46
26・5・29 漆・蒔絵の歴史 12
安土桃山時代の漆文化のもう一つ南蛮漆芸について述べて行きます。
西暦1549年ザビエルの種子島上陸後日本の文物は広くヨーロッパに知られることとなりました。
西暦1600年東インド会社の設立とザビエルのイエズス会の活動の相乗効果により日本の漆芸品が数多く交易品としてヨーロッパに輸入されたようです。
一説では1500年代末期から1600年代初頭の30年間に30万点もの漆器がヨーロッパに持ち込まれたと言われております。
漆芸品のことをJAPANと呼ぶようになった由来とも言われています。後にハプスブルク家のマリアテレジアが漆器に強い興味を持ち、数多くの収集を行っていたようです。そしてその娘のマリー・アントワネットの持ち込んだ漆器がベルサイユ宮殿、ルーブル他の美術館に沢山残されていることは周知の通りです。
尚、イエズス会の持ち込んだ漆器にはIHSのロゴ入りが特徴となっています。          

うるしよもやま話45
26・5・25 漆・蒔絵の歴史 11
安土桃山時代は漆器・漆芸の大きな出来事が二つか起っています。
@高台寺蒔絵(京都東山文化)A南蛮漆芸の隆盛 
いずれもその後の蒔絵・世界史に大きな影響を及ぼしています。
まず高台寺蒔絵について述べてまいります。高台寺とは豊臣秀吉の正室ねねが秀吉の霊を祀るため家康らの援助で建立された臨済宗の寺院です。
この寺院にある蒔絵の特徴は以下の通りです。@器物の特徴は単純明快な整然とした和様の趣 A文様に斬新な装飾性秋草紋に菊桐紋を配し器物の面を対角線上で二分したような片身替法を用いている。B簡単な技法で効果的な効果を出している。C梨地蒔絵を文様に応用し豪華さを演出している。
この後蒔絵技術の普及に大きな役割を果たしています。
もう一つの南蛮漆芸も大きな項目でもあり次回に述べさせていただきます。          

うるしよもやま話44
26・5・21 漆・蒔絵の歴史 10
さて、前々回室町時代の漆文化に触れましたが、輪島塗の起源はこの時代ではないかと言われています。
輪島市内に重蔵神社というお社がございます。この社の中に西暦1400年頃のものと思われる朱塗の板戸が見られます。当然簡単な漆塗りではありますが。
鎌倉新仏教の影響で輪島市門前町に曹洞宗永平寺の修行場として総持寺が開設されたのは鎌倉末期であり、その後地域文化興隆は全国との交流のある総持寺を中心に自然発生したものと推測されています。
         

うるしよもやま話43
26・5・15 漆・蒔絵の歴史 9
少し時代をさかのぼりますが、鎌倉時代の重要な事柄が抜けていました。ここで述べさせていただきます。
それは中尊寺金色堂のことです。藤原三代の菩提寺でもある奥州平泉中尊寺の金色堂が、漆に金箔仕上のきらびやかさで建立されたことは世界史的にも大きな出来事でした。
金色堂のことは、マルコポーロの西方見聞録に記述されています。黄金の国ジパングは金色堂を指し示していることは疑いのないところです。
西方見聞録の中の黄金の国ジパングが大航海時代の呼び水になり、新大陸の発見やルネッサンスの幕開けへと連なっていったものです。
そいうことでは漆文化と金箔の融合が世界史的な大変革となつていくわけですから、世界文化遺産の登録は当然であり、むしろ遅きに失したとも言えるのではないでしょうか。          

うるしよもやま話42
26・5・11 漆・蒔絵の歴史 8
日本の歴史からいくと次は室町時代となります。この時代新たな漆文化は特に生まれていないようです。
室町期には大陸との明貿易が盛んになり渡来物が珍重されており創造性が欠けた時代ではないかと思われます。
しかし反面基本技術の応用性が高まっています。
代表的なものに蒔絵の技術が発達しています。現代も使われている肉合(ししあい)蒔絵、研出蒔絵、梨地蒔絵、平文蒔絵、螺鈿細工、などがこの時代にほぼ完成に近い形となっています。
更には、鎗金(沈金の原型)が始まり、堆朱技法も生まれています。蒔絵の宗家、幸阿弥家、五十嵐家も出現しています。          

うるしよもやま話41
26・5・6 漆・蒔絵の歴史 7
時代は移り平安時代の中央集権から地方豪族が力を持つ地方分権に近い政治情勢となり、各地に独自の文化が発達していきます。 今でも日本を代表するようなお椀が産まれています。
いくつかあげますと、大内椀(山口県)秀平椀(岩手県)鎌倉椀(神奈川県)浄法寺椀(岩手県)権力とは別ですが合鹿椀(石川県)朽木盆(滋賀県)などです。
基本的なことですが地方に著名なお椀が根付いたのには理由があります。当初お椀は白木地だったわけですが、耐久性を持たせ、衛生面を考慮すると、漆によるコーティングが合理的だったわけです。そしてそれに権力者の欲する装飾性が加わっていきました。          

うるしよもやま話40
26・5・2 漆・蒔絵の歴史 6
平安時代の日本の漆器に関する世界に誇る二つ目の技術として蒔絵が出現しています。
国風文化の代表的なものに、寝殿造りがあげられます。その中に床の間というものが出現します。床の間の由来ですが公家が鳥帽子を置き香で焚きしめる場所として発達しました。
位階は鳥帽子で示されるため家の格をしめす中心として床の間が発達したようです。さらに昔の人は毎日髪の毛を洗うこともできず、整髪料汗の匂いを隠す目的で香を焚いたものと思われます。
少し話が横にそれましたが、寝殿造りの発達とともに漆三棚という調度品が出現しています。「書棚」書物等を置く「厨子」仏像を納める「黒棚」化粧品を収納する
そして別に床の間に違い棚が造られそこに優美な硯箱などが置かれました。
硯箱には蒔絵が施されていました。代表的なものに「片輪車蒔絵螺鈿手箱細工」があります。この文様は牛車の車輪を賀茂川の水に浸していた様子と言われています。現在は片輪車を源氏車と表現しています。          

うるしよもやま話39
26・4・28 漆・蒔絵の歴史 5
次は奈良より平安遷都の時代です。
平安時代、都では国風文化が生まれ漆文化にも大きな影響を及ぼす、当時二つの技術が誕生しています。
一つ目 轆轤技術の誕生です。奈良時代後期 「恵美押勝の乱」のあと称徳天皇は平安護持を祈る目的で「百万塔」を作り中に陀羅尼(経文)納め全国の諸寺に奉納されました。
この轆轤技術の発達を清和天皇のお血筋の惟喬鷹親王が保護されました。特に滋賀県朽木地方に住まわせ全国の山林入り放題の許可を与え木地師を保護しました。小椋、小倉、大蔵などの姓はこの木地師を祖としているようです。
これらの人々が椀木地技術を全国に広め食器を漆塗する文化へと進化していったようです。
二つ目は蒔絵の出現です。この項目も少し長くなりますので、次回改めて述べさせていただきます。          

うるしよもやま話38
26・4・23 漆・蒔絵の歴史 4
奈良時代には文化史上大きな出来事がいくつか起っています。聖武天皇・光明皇后お二人による熱心な仏教帰依によるものです。
一つは国分寺、国分尼寺などの設置により仏画、仏像など漆を使う品々が大量に製造されています。
二つ目は聖武天皇没後遺品が正倉院に寄進されております。
正倉院の御物の中に「漆胡瓶」というものが収められています。この御物はシルクロードを経由してきたものと推定されており、これ以後の漆芸の発展に多きな影響を与えたものと言われています。
当時のものの中から、螺鈿、銀の平脱、金銀泥絵、末金鏤(マッキンル→蒔絵の源流みたいなもの)などの技法が認められています。
         

うるしよもやま話37
26・4・19 漆・蒔絵の歴史 3
弥生時代から古墳時代を経て大和朝廷が成立し飛鳥時代に入りました。当時仏教の伝来に並行大陸文化の移入が盛んになり、漆による仏像など漆の加工技術が飛躍的に進んできました。
木芯乾漆の技術を利用した百済観音、蜜陀絵など漆を利用したものがそれです。漆とは直接関係ありませんが法隆寺にある「玉虫の厨子」が当時の日本を代表される工芸品として誕生しています。
更にはこの時代からスタートした遣隋使、遣唐使を通じて大陸の文物が伝来し、日本独自の技術と融合していき、世界に類を見ない漆文化が発達していくことになります。
         

うるしよもやま話36
26・4・16 漆・蒔絵の歴史 2
前回約8千年前くらいの朱塗漆の竪櫛が出土された旨述べさせていただきましたが、何故朱色なのでしょうか、推測されているのは、朱→赤→明→太陽という連想性が導きだされています。
その後7,000年程度以前の石川県鹿島郡の三引遺跡、約5,000年程度以前を前後に、千葉県銚子市の粟島台遺跡、青森県八戸市の是川遺跡などから朱色の祭祀用品らしきものが出土しています。多分シャーマニズムには欠かせない道具とされていたのではないのでしょうか。
そして原始人の定住する弥生時代卑弥呼の生存した時代に入り、支配階級と被支配階級ができてきます。
支配階級の使用する腕輪、首輪、櫛など木製漆塗り品が全国的に出土しています。
すでに漆の接着剤、コーティング剤、彩色剤としの有用性が広く敷衍していたのではないでしょうか。
         

うるしよもやま話35
26・4・12 漆・蒔絵の歴史
前回漆の色について述べさせていただきましたが、これから何回かに分けて漆を軸に蒔絵を含めた歴史に触れていきたいと思います。
何度か同じような話が出てくることになると思いますが、お許し願います。
学術的には縄文時代に日本に大陸から漆が伝わったというようになっているようですが福井県三方町の鳥浜貝塚から漆の木の燃え残りがみつかっています。
そしてそれは約12,000年前(縄文時代の初期)ぐらいのものだそうです。何を示すかということは漆の木は元々日本に自生していたのではないかということです。狩猟民族は狩りに使う石斧・鏃などに漆を使っています。
次に漆に関する出土品はBC6,000年(約8,000年前)くらいの同じ鳥浜貝塚で朱塗の竪櫛が一部腐蝕しないで発掘されています。使用目的は巫女が利用したものと考えられています。何故朱色なのかは続く
         

うるしよもやま話34
26・4・6 朱漆と黒漆
漆の色は漆黒という言葉に代表される、黒が代表的な色彩であることは論を待たないところです。しかし色にも格付けがありました。
平安期、朱の色は従五位より上の身分の方しか使えなかったようです。勿論一位は紫色でした。前述の輪島塗家具揃は朱色が基本でした。江戸期には神社仏閣は朱色使用の許可が得られていたようです。
  また、黒と朱について甲斐武田家の甲陽武鑑に「手柄をたてしものに朱の膳にて馳走し、手柄なきもの黒の膳にて食らわす」などの記述があり、色での待遇の差別を明確化させています。
前に述べましたが、葬式の後の御膳は江戸時代には最高の公式行事として、農民といえども朱色の御膳を許可されていたようです。
         

うるしよもやま話33
26・4・1 能州輪島布着本堅地 朱塗家具揃(最後)
太平洋戦争を挟んで輪島塗の家具御膳の需要は壊滅状態でした。更には長崎国旗事件(ウィキペデイアで参照願います)により中国からの漆の入荷ストップして大変な時期を迎えました。
その中で息を吹き返したのは高度経済成長路線による旅行ブームの到来でした。猫も杓子もの旅行により、塩化ビニールの花器・パネルがお土産として爆発的に売れました。
  同時に旅館の座卓、御膳、備品、食器などでした。その後紆余曲折はあり、バブル経済のころには家庭で人をもてなすお道具、蒔絵付き座卓、食器、調度品などが隆盛をもたらしました。
しかしほどなくバブルは破綻し、コンビニなどで代表される便利生活にとって代わられ手間暇かける生活の代表格塗物の需要は近頃ほとんど趣味の世界でしか見られないようになってしまいました。
漆の代用品は世界中にいくらでもあります。しかしそのぬくもり、質感は生活に潤いを与えると信じて管理人も取扱しています。          

うるしよもやま話32
26・3・26 能州輪島布着本堅地 朱塗家具揃 5 
表題と少し離れますが輪島塗のスタートは家具揃です。従ってこのコーナーで引き続き輪島塗の歴史に触れていきます。
輪島塗の主たる購入者として、農村の支配階級が消滅し、主要なマーケットが消滅していったわけです。
  しかし殖産興業の影響で今でいう一部特権階級向けに娯楽産業というものが起こり始めました。
飲食業・料亭・旅館文化が明治期から勃興し、庶民のあこがれであった輪島塗を利用したわけです。
この飲食業文化が敗戦の影響下も含め戦後しばらく続いていました。この間家具揃はほぼ輪島塗塗師屋の看板商品から消え去ってしまいました。          

うるしよもやま話31
26・3・20 能州輪島布着本堅地 朱塗家具揃 4 
 明治維新は輪島塗の歴史にも変化を与えました。
地租改正の現物納付制度の廃止が農村構造を劇的に変化させました。 従来の村方三役は基本的に不要となり、貨幣納付は自作農全体に余裕を齎せましたが、支配階級の実入りはなくなり購入者を激減させていきました。
  農村支配階級の崩壊により家具揃の需要は失われていきました。
次に輪島塗のニーズが起こってきたのは、料亭文化でした。 明治維新から文明開化により都市部への人口移動が起こり、地方の下級武士、貧農の子弟などがかってあこがれであった輪島塗を飲食に利用しはじめたのです。          

うるしよもやま話30
26・3・16 能州輪島布着本堅地 朱塗家具揃 3 
 西暦1800年頃輪島には「大黒講」という任意の組合が組織されていました。その目的は
1)塗り師の製法の確立
2)販売価格の統制
3)販売区域の協定
それぞれの主旨は 全国統一のデザイン ダンピング防止 無駄な競合の防止 だったと思われます。
  輪島の経済基盤は今では漆器のシエアは相当低下していますが、当時は陸の孤島で輪島塗による外貨獲得の貿易立国みたいなものでした。
お客様への分割払い制度なども協定されていたようです。          

うるしよもやま話29
26・3・11 東日本大震災 
 今日は3年前のあの忌まわしい記憶をあらためて呼び起こし、亡くなられた方々及び被害に遭われた方々に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
管理人が従前勤務していた会社では主原料の漆を確保するという国の事業に沿って岩手県浄法寺に植林を委嘱してありました。
  今頃は既に採取時期を迎えるか、過ぎているのではと思いますが、かって漆販売の方にお聞きしたところでは、日本産漆は高価で品質も良いが日常の中ではほとんど流通せず宝の持ち腐れのようにお聞きしました。
漆の植栽技術と効率的な採取技術が もっと研究され自然素材として見直され、輸入に頼らない方法がないものかなどとつらつら考えています。          

うるしよもやま話28
26・3・7 能州輪島布着本堅地 朱塗家具揃 2 
 家具揃にはアイテムとしてどれだけのものがあったのでしょうか、以下にアイテムの名称を列挙いたします。
1人前:本膳・二の膳・飯椀・汁椀・菓子椀・平椀・大平椀・つぼ椀・猪口・フ皿・小皿 11アイテム
以上の11アイテムが5人前の縦長の箱に5セット入っています。そしてこの5人前に 1セット:飯びつ・飯びつ台・杓子・通盆(2枚入れ子になったもの)の4アイテム付きます。
そして5人前セット4組20人前分に湯桶・湯の子掬いがついて 20人前家具一束(いっそく)と称しました。
その形状は全国共通デザイン色調もほぼ互換性を持たせてありました。
葬儀の会食(最高のセレモニー、規模の大小はあるものの村八分の人でも葬儀と火事だけは除外された)・公式の会食の席などでは家具揃いを融通しあっていました。
融通しあっていた家具揃えを返却する際、紅絹で拭きあげるなど扱いが慎重にされていたことが、輪島塗は取り扱いが面倒という定説につながっていったようです。          

うるしよもやま話27
26・3・3 能州輪島布着本堅地 朱塗家具揃 
 輪島塗が全国ブランドになってゆく経緯などを従前、本欄で述べさせていただきましたが、続けてみたいと思います。。
よくお客様から私の実家には古い御膳お椀のセットがあります。というお話をお聞きすることがあります。
そういう方にお勧めしたいのは一度ご実家に帰られた際、箱書きに「能州輪島布着本堅地 朱塗家具揃」の表題がついていないかどうか確認してみられたらどうかということです。
前述の箱書きはあれば輪島産ですので是非一度ご覧になつてください。
輪島塗のお道具が全国ブランド化したのは西暦1700年代後半くらいでないかと言われています。
その頃前述の箱書きのお道具は大半、村方三役のご注文だったそうですから、かなりの数が残っているはずです。
残念ながら現在はその価値はほとんど認められず、土蔵の整理、建て直しの際に焼却処分されているようです。
何回かこのお道具について触れてみたいと思います。          

うるしよもやま話26
26・2・24 蒔絵について 4 
 伝統産業の道具には思わぬ素材が使われているということがあります。
蒔絵について説明させていただいておりますが続きです。
蒔絵の作業には漆を塗りこんだり細い線を描くことがあります。この塗りこみ線描きに使われる筆を蒔絵筆といいます。
粘着力の強い漆を筆で塗りこんだり線を描いたりするわけで耐久力があり、かつ弾力性のある素材が必要とされています。
現在、蒔絵筆の毛先には猫の毛と、鼠の毛が主に用いられています。
古来蒔絵筆の最上級のものは琵琶湖周辺のクマネズミの脇毛だといわれています。
近年の研究でクマネズミでは十分な毛の長さが確保できず、ドブネズミを利用した方が良いのではと議論されています。
最上級の蒔絵筆は1本10万円以上するもので、腕の良い蒔絵師でないと十分活用できないなどといわれています。          

うるしよもやま話25
26・2・18 余談 
 女性で容姿の劣る方にブスという失礼な形容詞があります。
語源については顔が不細工などいくつかの由来が言われています。
これから述べることは真偽のほどは全く自信はありませんがお付き合い願います。
インターネットを検索したところブスとはトリカブトの毒のことを指すとあります。
狂言にもブスという題材の演目があり、毒にまつわるお話です。毒と書いてブスと読ませることがあります。
管理人が聞いたところでは漆の黒色を出すための硫化第二鉄(Fe2SO4)を漆に混ぜるます。この硫化第二鉄には強い毒性があります。
硫化第二鉄が昔の既婚女性のお歯黒に用いられていたとのことです。
お歯黒を施した女性すべて醜いわけでなかったとは思いますが、中に見るに耐えられない女性もおられその方をブスという表現をしたとの説があります。          

うるしよもやま話24
26・2・14 蒔絵について3 
 蒔絵の金色について触れてみます。
前回までに触れてきました、金粉の現物を見ますとこれが金粉と不思議に思うほど金色がありません。まるで黄粉のような色合いです。これがどのようにしたら金色が出るのか述べてみたいと思います。
蒔絵の基本的な工程は以下の通りです。初めに下絵に従って金粉を蒔く部分に漆を塗布します。
次にその部分が乾く少し前に金粉を蒔きつめます。あまり早く蒔くと金粉が塗布面に沈みすぎるからです。
つぎに漆が乾くのを待って漆面と金粉の凸凹面が光を正反射するようになるまで研磨します。
イメージ的には秋吉台に行かれた方は思い出していただきたいのですが、原野に石がごろごろしていますね、あの状態を密集させてものが塗布面と金粉の関係です。
そして土の部分と石の部分が平面となるまで石を削る作業が、漆面と金粉が光を正反射するまで研磨する作業です。
このような作業をすることで、蒔絵の金色を現出させていくことになります。漆の乾き具合、密集度、研磨度合いこれらが職人の技術の差になり光沢も違ったものになってきます。          

うるしよもやま話23
26・2・11 蒔絵について3 
 金粉の大きさ製造工程に触れてみます。管理人が前勤務先の研修で得た知識ですので、真偽は確かでありませんのでご了承ください。
工程1 金のインゴットを鑢(ヤスリ)でおろします。⇒鑢粉
工程2 鑢粉をシエーカー機能を持つ小槌のようなもので振ります。
工程3 これを2,3日続けると鑢粉の角が取れて丸い形の粉ができます。⇒丸粉
工程4 鑢粉を振って落ちた粉を平たく叩きます。⇒平粉
工程5 平粉を叩いて平たくしたもの⇒梨子地粉
工程6 丸粉を叩いて平たくしたもの⇒平目粉
この工程とは別に金箔を粉末にしたもの⇒消粉
以上のように金粉にはサイズ、形態色々あり、これらを駆使して金色を出していく技術が鎌倉期にすでに日本にあったということです。          

うるしよもやま話22
26・2・6 蒔絵について2 
 金粉の製造に携わっておられるのは日本に2か所ということは世界で2か所ということです。
それは金沢の吉井商店と東京の浅野商店の2か所です。 上記2か所の金粉メーカーが全国の蒔絵師さんを対象に営業を展開しておられ伝統工芸を下支えされています。
それぞれ金沢粉、東京粉などと呼称されています。製法は門外不出一子相伝の技術と聞き及んでいます。
その種類は丸粉・平粉・消粉・梨子地粉などに大別され、更に大きさごとに小分類がされています。
もちろん管理人も製造工程その他また聞きですので これ以上の詳しい知識はありません。
現物の金粉は見た目輝きは全くありません。塗面に蒔いて研ぎだすことで蒔絵の輝きを出すわけですが、これは蒔絵師の技術です。          

うるしよもやま話21
26・2・4(立春) 蒔絵について 
 塗物と切っても切れない関係にあるものに蒔絵があります。
世界的に見ても蒔絵は日本独自の加飾技法として称賛されています。 パリのマリテレジアの作った日本の間はうるし塗りで黄金色の蒔絵を施したものが、ふんだんに見られます。
その日本以外で見られない蒔絵は東インド会社の重要な交易品でもありました。
この蒔絵に使われている金粉が日本独自の技法を支えているものと言えます。
金のインゴットから蒔絵に使う金粉を作るわけですが、この技術が日本で2か所門外不出の技で受け継がれているのです。
かって東アジアのある国がこの技術を自国でと挑戦してみたそうですが、成功しなかったように漏れ聞いています。
次回から何回か蒔絵、金粉に触れてみたいと思います。          

うるしよもやま話20
26・1・29 塗物と動物の関係A
 塗物と動物の関係を続けます。
漆器は塗りたて、それほど輝き艶があるものではありません。 それを長年使い人の手で愛用していくと使い艶がでるようになり、素敵な輝きを持つようになります。
その艶を新品の時から出す手法があります。
それが呂色(蝋色)と言われる手法です。角粉(鹿の角の粉末)で表面を磨きだしで塗りぱなっしの漆器に輝きを出す手法です
この角粉は近年チタニュームなどを代用していますが、この角粉を探し出した昔の職人さん達の知恵には脱帽するばかりです。          

うるしよもやま話19
26・1・25 塗物と動物の関係@
 塗物を完成させるには動物の骨・髪などとの関係を見ていくと面白いものがあります。
上塗の世界から見ていきます。輪島塗の世界では下地は木の箆を使います。 そして中塗・上塗の職人は刷毛を使います。この刷毛には女性の髪の毛を使います。
5cm×20cmくらいの二枚の木の板の間に髪の毛を挟み鉛筆のように削りだして刷毛として使います。
従って少なくとも3,40cmくらいの女性の髪の毛が必要となってきます。
近年日本でパーマをかけず、まっすぐできれいな髪を確保することは不可能になっています。
よってこの刷毛の材料も中国を主体に輸入に頼っているようです。

うるしよもやま話18
26・1・21 うるし七木
 うるし科の植物は世界に約600種類存在しその大部分は東南アジアにあります。
うるし科の植物の特徴としては広葉落葉樹が多く主に温帯、亜熱帯に生息しています。
その中で日本には昔からうるし七木と言われる種類が見られます。
うるしの木・山うるし・ぬるでちゃんちきもどき蔦うるし櫨の木・ふしの木
いずれの木も葉は紅葉時期には色鮮やかに発色するものが多く見られます。
またうるしの木・櫨の木(和ローソクの材料)のように樹液を採取して活用されるものもあります。
うるしの木は雌雄異株で自然増殖が進みにくく、人の手による増殖が欠かせないようです。

うるしよもやま話17
26・1・17
約1年半ぶりにこのコーナーを再開いたします。
阿部政権のスタートで経済政策が様変わりしています。
円安の進行は漆の世界に大きな影響を及ぼしています。
本年2月から漆の価格が約25〜30%ほど上昇します。
漆の供給は98%前後中国からの輸入に頼っています。
反面需要は100%といっていいほど国内です。
多分価格転嫁は簡単にできず、益々漆器業が衰退に近づいていくことになりそうです。

うるしよもやま話16
24・9・8 三津七湊
うるしとはあまり関係ありませんが、室町時代の「廻船式目」
に日本の10大港が記されています。内訳は◎三津=安濃津(三
重県津市)博多津(福岡市)堺津(堺市)◎七湊=三国湊(福
井県坂井市)本吉湊(石川県白山市)輪島湊(石川県輪島市)
岩瀬湊(富山県富山市)今町湊(直江津 新潟県上越市)土崎
湊(秋田湊 秋田県秋田市)十三湊(青森県五所川原市)であ
り。多くは北前船の寄港地です。輪島塗の起源に特に関係して
いるのが三国湊と輪島湊です。曹洞宗の布教戦略と大いに関連
性があることについては次回以降とさせていただきます。

うるしよもやま話15
24・9・3 黄金の国ジパング
マルコ・ポーロの東方見聞録の中に黄金の国ジパングの逸話が
記され、それが平泉中尊寺の金色堂をさしていることは広く知
られていることろです。
そしてこの黄金の国をめざしたことがコロンブスらの大航海
時代の幕開けを招き、南北アメリカ大陸の発見にいたったこと
は歴史の証明するところです。その原点である建物に漆を塗り
金箔を貼り付ける技術は「漆=ジャパン」といわれる日本の誇
りであり残してゆくべき大切な文化ではないでしょうか。

うるしよもやま話14
24・8・26輪島塗と他産地の比較その3
輪島塗の製法は前述の通り、木地に漆を浸透させるだけ
浸透させ、木目が浮出てこないようにさせています。
一度塗り、乾燥させたあと密着度を高めるため表面を
研ぎます。この工程を最低でも5回程度重ねます。
よってコストアップします。しかし漆と木地の密着度
は高く剥離することはありません。漆の層が厚く沈金など
の表面に加飾がしやすくなります。また密着度が高いため
部分修理など再加工が容易です。
輪島塗は長く愛用したい器物にむいているようです。

うるしよもやま話13
24・8・17輪島塗と他産地の比較その2
更に製法の違いによるメリット、デメリットについて述べて
みます。輪島塗以外の漆器の大部分は木に膠・柿渋などの
下地をしてその上に2度ほどの塗を施します。
よって短期間で完成します。そのためコストも抑えることが
できます。しかし下地が水溶性などで微細な傷からでも
水が入り下地材を溶解させ漆の塗膜と木が剥離しやすく
耐久性が劣ります。そのため装飾品などでは問題ありませんが
食器としての品質は輪島塗に譲らなければならないようです。
続きは3で

うるしよもやま話12
24・8・8 輪島塗と他産地の漆器の違いについて述べてみます。
よく輪島塗はお値段が高く手が出ないというお話を聞きます。
何故輪島塗は飛びぬけて高いのでしょうか。それは製法に差がある
からです。他産地では木と漆の間に木と漆を遮断する遮蔽物を
塗り木目が出るのを防いでいます。(例えば 膠 柿渋など)
そのため3回ないし4回程度の塗作業で済みます。
輪島塗は木目が出るのを防ぐため木に漆を浸透させるだけ浸透させ
仕上げています。そのためコストがかかりお値段が高くなります。
細かい点で産地別のコストの違いはまだまだありますが、基本的な
コストの差は上記の考え方に由来しています。(利点については次回)

うるしよもやま話11
24・8・3 漆の色は各種顔料を合わせることでほぼどんな色も
だすことができます。それでも純白だけは出せません。
しかし日本にお一人だけこの出せぬはずの純白を出せる
方がいらっしゃいます。それは富山県南砺市城端町に工房を
お持ちの城端蒔絵塗師屋治五右衛門という方です。
一子相伝の技術で門外不出の白漆です。
興味のお有りの方はURLなどで検索してみてください。

うるしよもやま話10
漆の硬さの変化について触れてみたいと思います。
その昔 王水(貴金属の溶解に利用する液体)を入れる器に
漆器が使われたと伝えられているほど安定性があります。
但し、塗った直後の漆は鉛筆硬度で2Bほどの柔らかさです。
それが、1年後2Hの硬さになり、7年後4Hの硬さとなり
30年後7Hの硬さになるといわれています。
本来漆器は1年ほど寝かせてから使いだせばさらに長持ちするようです。
ただ漆は紫外線に長時間あたると劣化し、色落ちしていきますので
お気をつけください。

うるしよもやま話9
木地の加工方法 大別して3通りあります。
1つは 「挽物」です。前回Gで述べさせていただきました
轆轤、旋盤など使い加工したものです。材質は主に、欅、水目桜、橡
などが使われます。産地としては石川県加賀市山中町などが有名です。
2つめ 「指物」です。木材を板にしてつなぎあわせ重箱など箱物と
言われるものが中心です。箱根の寄木細工などが一種です。材質に桧、
あすなろ、イチョウなどが使われます。
3つめ 「曲物」です。板を曲げて主に筒型などに成型し容器としたもので
秋田の曲げわっぱなどが有名です。材質は杉、桧、あすなろ、などが
主に使われます。
いずれも豊かな自然を持つ我が国が世界に誇れる技術だと思います。

うるしよもやま話8
轆轤技術
奈良時代に称徳天皇(後に孝謙天皇)が藤原仲麻呂
(恵美押勝)の鎮魂のため
「百万塔」(木製三重の小塔 高さ21.4cm底部10.5cm)
を作らせました。
推定人口600万人の時代に約7年で百万個の陀羅尼
(経文:世界最古の印刷物)を入れる塔が作られたわけです。
このとき轆轤技術が飛躍的に発達したものと推測されています。
そして、その歴史が世界にあまり類の見られない漆塗の器へ
発展していったものと思われます。

うるしよもやま話7
沈金について
漆器の加飾(模様など)には大別して2種類あります。
それは蒔絵と沈金です。
蒔絵は器物の上に漆で模様を描き
金粉を蒔きその金粉を研ぎだして光沢を出す技法です。
全国各地で行われています。
それに対し沈金は器物を鑿で彫りその上に金箔を埋め込み
さらに脂分の少ない漆を擦り込み保護する技法です。
塗の層の厚い輪島塗だからできる技法です。
現在輪島では沈金技術の人間国宝おひとり
芸術院会員おひとりがご活躍中です。

 
うるしよもやま話6
全国ブランド
輪島塗の歴史は次のように推測されています。
輪島市門前町(平成の市町村合併により)に
曹洞宗別格本山総持寺という名刹があります。
江戸時代には末寺16千ヶ寺を擁していました。
そこに全国各地から修行僧が集まっており、
常時数百人規模で宿泊していました。
当然丈夫な食器が求められました。
それが独特な技術「地の粉、布着せ」を産み出しました。
その丈夫な本山の器が修行僧の帰国とともに各地に
普及していったものと推測されています。

うるしよもやま話5
日本全国いくつの漆器産地があると思いますか。
北は青森、南は沖縄県まで漆器産地のない県を探すのが
むずかしいほどです。なぜならばその昔村ごとに
加治屋さんがあるのと同じように漆屋さんがあった
ようです。その関係で地方地方の個性をもった漆器が
発達していきました。その中で唯一全国ブランド
となったのが輪島塗です。
その成立要因は後日とさせていただきます。

うるしよもやま話4
漆の採取について
漆の採取方法には、養生掻きと殺し掻きの2種類あります。
養生掻きとは漆の木に連年若しくは隔年毎に
傷をつけて木を生かしながら樹液を採る方法です。
主に中国、タイ、ベトナムなどでこの方法が取られています。
殺し掻きとは植栽後10年程度経過した漆の木の全面に
傷をつけて1年間に採れるだけ採って最後伐り倒す方法を言います。
日本、朝鮮半島がこの方法です
いずれにしても根気のいる仕事で世界的に職人が減少しています。

うるしよもやま話3
風呂拭き大根について
漆器を乾燥させるとき一定の温度と湿度を保つために
全面木の板で造られたうるし風呂というものの中で乾燥させます。
温度28度湿度80%が望ましいといわれています。
しかしながら冬期間などは維持するのが大変でした。
漆の乾燥が遅く困っているときに大根を煮た汁でうるし風呂の
中を拭くと漆器の乾燥が早いといわれています。
そして大根を煮た結果大根が余ります。
この大根を味噌田楽などで食したわけです。
諸説あるとは思いますが、これが風呂拭き大根のいわれの一説です。

うるしよもやま話2
漆かぶれのメカニズム
漆にはウルシオールという漆の
特性を引き出す成分があります。
さらにこのウルシオールの中にOH基(水酸基)という
不安定な物質が含まれています。
漆が肌に触れるとウルオールの中のOH基と皮膚たんぱくの
NH3(アンモニア)が反応します。
その結果NH2(アミノ基)が形成され
これを排除しようとして体に炎症が起きます。
この現象がいわゆる漆かぶれです。
この漆かぶれがたび重なると白血球が漆かぶれを記憶し
免疫がつくわけです。

うるしよもやま話1
うるしはいつ頃から使われているのでしょうか
諸説ありますがおおよそ20,000年程度以前から
使われていたようです。
用途としては磨製石器の表面の塗布剤として
同時に矢じりと矢柄を固定する接着剤としても、
利用されていたようです。
その後時代は進み、縄文期には祭祀用品として
朱塗の櫛のようなものが 使われていたようです。